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ペルトのいた街

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アルヴォ・ペルトの音楽が生み出す静謐の世界に身をまかせていると、その扉を初めて叩いた日のことが不意に思い出された。それは僕にとって彼の音楽を知るきっかけだっただけではなく、ジャンルを越えた未知の音楽世界に迷い込む楽しさを知るきっかけでもあった。

場所は京都の三条河原町から西に入ったところにある十字屋本店。楽器や音楽ソフトを扱う大きな店で、今も同じ場所にあるのだが、これは今から30年も前の秋口の話だ。当時レコード売り場が2階にあって、店外から直接上ることのできる階段の踊り場のあたりまで、直輸入のLPレコードを詰め込んだラックが所狭しと置かれていた。ちなみにCDはまだまだ黎明期で、タイトル数も少なくCDプレイヤーも高価だったため、あまり普及していない時期だった。

十字屋で全てのジャンルのレコードを扱っていたかどうかは忘れてしまったが、僕自身は俄かに興味を持ち始めていたジャズに目が行きはじめた頃で、レーベル毎に分けられたラックの、たまたま目についたドイツECMレーベルのところを覗いてみた。学生時代、よくわからず聴いていたキース・ジャレットのアルバムがECMだったことを思い出したからだ。

その中に、数枚のキースのアルバムに挟まって、Arvo Pärt (アルヴォ・ペルト)と記されたアルバムがあった。誰かの名前のようである。僕は少し不思議に思い、そのアルバム「Tabula Rasa (タブラ・ラサ)」を手にとってジャケットを確認した。なんともシンプルなジャケットには、1曲目"Fratres"の所に確かにキース・ジャレットの名前が記されている。ところがもう一人の名前がバイオリニストのギドン・クレーメルだったので混乱した。二曲目の"Cantus"の所には、シュトゥットガルト国立管弦楽団と記されている。三曲目は一曲目と同じ"Fratres"だが、演奏がなんとベルリンフィルの12人のチェリスト達だ。四曲目の”Tabla Rasa”ではシュニトケの名前も見える。

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アルヴォ・ペルト:タブラ・ラサ / ジャレット、クレーメル他

すごい顔ぶれの演奏者たちが並んだ、このよくわからないアルバムには、一体どういう音楽が詰まっているのだろう。そしてアルヴォ・ペルトとは、一体どういう人なのだろうと、思いはドンドン膨らんでいく。当時は購入しても部屋にはカセットデッキしか無く、よくわからないアルバムに手を出す習慣も余裕も無かったのだが、もう入手しないではいられない心理状態になっていて、気がつけばそのアルバムを持ってレジに向かっていた。

社会人1年目だった当時の僕は、京都と大阪の間にある小さな街の古びた社員寮に住んでいた。10帖程度の二人部屋は旧態依然としたつくりで、同室のO君は高専卒の3つ年下。タバコも酒も嗜まず、僕が傾注する音楽にも本にも映画にも全く興味を示さない、とても真面目な人物だった。当初彼と話が合うのか不安だったが、そこは年齢差もあり特に問題はなかった。ただひとつ難点は休日だった。彼にとっての休日は、文字通り翌週からの仕事に向けて部屋で静かに体を休めるためのもので、僕は休日まで一緒に過ごす気にはとてもなれず、休みになると午前中には寮を出て、さて今日は京都にしようか、大阪にしようかと、特に当てもなく街に繰り出しては夜遅くまでフラフラと見聞を拡げることにいそしんだ。そんな中で件のアルバムに出会ったのである。

その日僕は早く聴きたい一心で京都からいつもより早めに寮に戻った。同じ階にレコードプレイヤーを持っている同僚がいたのだ。そして、早速彼の部屋にそのアルバムを持ち込み、ブックレット状になったアルバムジャケットの中のペルト本人の写った微妙な写真を眺めつつ、初めてその深遠なる音楽と対面したのである。

図1

アルヴォ・ペルトはその数年前に、当時ソビエト連邦の統治下だったエストニアから西ドイツに移り住んだ無名の現代音楽の作曲家だったが、ECMのプロデューサー、マンフレート・アイヒャーに見出され、製作されたのが、初の作品集となる「Tabula Rasa」だった。ちなみに、タブラ・ラサは「白紙の心」という意味である。僕が入手したのは、西ドイツでリリースされた直後の直輸入盤だったので、まさにその時点では、ほとんど知られていない人であり音楽だったのだ。

あれから30年たった今、買いなおしたCDでこのアルバムを聴いても、やはりその音楽の持つ清新なる静寂の印象は、当時と変わらない。特に今回、何度も聴いてしまったのが2曲目の”Cantus (ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌)”だ。

  Link:  Cantus in Memory of Benjamin Britten (Arvo Pärt)

教会の鐘を思わせるチューブラー・ベルの音から始まるこの曲は、その上に様々な音形の中弦、高弦の下降音が重なり合い、低弦はゆったりとした上昇音形を示し交じり合う。繰り返されるミニマルな音の波は、最初の繊細な印象から、やがて慟哭を思わせる分厚い和音へと変貌していく。そして全ての弦が弾ききった後の空間に、既に鳴り止んでいたはずのベルの共鳴の余韻だけが残され、消えていくのだ。底知れぬ悲しみの後の静寂は、何度聴いても胸を打つ。


エストニア生まれのアルヴォ・ペルトは、タリン音楽院在学中から、西欧の前衛音楽が禁止されている中、西側からの少ない情報を元に様々な現代音楽的なアプローチに取り組んだようだ。60年代後半には、検閲を逃れながら上演した作品が話題になったが、当局から10年以上の上演禁止を通告され、また彼自身も要注意人物としてにらまれるようになる。

ペルトはその後長く沈黙を続けたが、あるとき教会で単旋律の聖歌を聴き、複雑な構造の前衛音楽こそが優れた音楽だと信じてきたことは誤りだったと気づく。そして、西洋音楽の根源への回帰を目指して、グレゴリオ聖歌や中世・ルネッサンス期の音楽の研究に没頭するようになり、やがて「ティンティナブリ(鈴鳴り)様式」と呼ばれる彼独自の音楽様式を確立していくのだ。この一枚は、その様式を初めて広く世に示し、認められていく発端だったのである。


ところで、この夏、彼が西側に出国するまで暮らしていたエストニアの首都タリンを訪れた。ヘルシンキから高速フェリーでバルト海を渡り、街全体が世界遺産登録されている旧市街を一日かけて散策したのだが...実はこの旅行の時点ではペルトのことは全く頭に無く、ペルトとタリンが結びついたのは帰国後しばらくたってからだった。わかっていればもう少し見方が変わっていたかも知れないと思うと、少し残念な気もする。

今回乗ったリンダ・ラインという高速フェリーは、一般的なタリン港ではなく、市民ホール前の小さな港に到着する。そこには案内表示も何も無く、わからないままに他の乗客の進む方向についていくと、到着早々なんとも荒んだ雰囲気のだだっ広い場所を通ることになった。後でそれは市民ホールの屋根の上だと知ったのだが、ヘルシンキとは大違いの寂れた風景に、さすが旧ソビエト連邦!と妙に納得しながらも、大いに不安になった。とは言え、数分も歩けば前方に旧市街と思しき場所が見えてくる。緊張が少しずつほぐれ、旧市街の入り口に当たる「ふとっちょマルガレータの塔」と、その横にある城門・スールランナ門の前に立つに至って、ようやく気分が軽くなった。

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この城壁に囲まれた中世ドイツ風の旧市街は、デーン人によって建設され、その後たびたび支配者を変えてきた。そうした変遷を経てなお、ここまで昔の姿が残っているのは驚きだ。旧市街好きの僕にとっては本当に夢のような街並みだったが、敢えて言うなら、きれい過ぎる、もっと生活感が欲しい、というところだろうか。まあ、贅沢な話ではあるのだが。

この一日あれば歩いて回れる程度の城壁の中には、たくさんの教会・大聖堂が点在している。それも建てられた時代や宗派によってデザインが全く違うため、街全体として、統一された色を持っている、という感じでもない。高い尖塔を持つドイツ風の古い教会から、どっしりと丸みを帯びた屋根をもつロシア正教会まで本当に多様だ。ペルトが単旋律の聖歌を聴いて自らの方向を見出した教会も、この中にあるのだろうか。いずれにしても閉塞感のある時代にそのような目覚めを持つには格好の場所だったのだろう。

タリン散策の最初に行き当たった教会は、タリンで最も高い尖塔を持つ聖オレフ教会だった。正面のドアが開いていたので中に入ってみると、おじさんが一人、番をしている。2ユーロ支払ってさらに奥に入ると、そこは思いがけず尖塔への階段の入り口だった。狭くて急な石造りの階段は思った以上に長く、降りてくる人をかわすのも一苦労だ。息を切らしながら行き着いた尖塔の屋根の部分には、周回できる展望場所があって、これがまた不安定で狭い。人とすれ違うのも体が触れ合うし、足がすくんで落ちそうになる。日本だと間違いなく閉鎖だろうと思うような場所だが、それでもそこから見た赤い屋根と古い街並みの眺望は、タリンで一番の風景だった。

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石造りの道の両脇にある古い建物に目を奪われつつ歩く。時にわき道に迷い込んでは新たな発見をして戻ってくる。道沿いに連なるお店毎にぶら下がっている個性的な看板や、壁のモニュメントも面白い。下を見れば、キリル文字のマンホールに出会い、旧ソ連だったことを不意に思い出したりもする。人もそれほど多くはなく、ちょっとした事に遊び心を感じる、興味の尽きない楽しい町だった。

図8

そうした印象を持って、どう振り返ればアルヴォ・ペルトの音楽とこの街が重なるのだろうか。思ったことは、ヘルシンキ同様この国の冬は長いということだ。8月に訪れたのでは見えない部分も多いだろう。やはりペルトの音楽には秋から冬の光景の方が似合うのかも知れない。

「タブラ・ラサ」のリリースから30年。その間、世の中は大きく変わった。ことにソビエト連邦の崩壊とエストニアの独立は、ペルトにとってこの上なく大きな出来事だっただろう。2010年、エストニア各地でアルヴォ・ペルトの生誕75周年を記念するイベントが行われ、ペルト自身も30年ぶりに帰国したと聞く。そして今年、日本でも高松宮殿下記念世界文化賞を受賞し、まだまだ健在であることを知ると同時に、変わることのない人気の程を知ったのである。

さて、タリンは今、どんな佇まいなのだろう。ペルトのいた街は、ペルトの音楽が似合う季節になっただろうか。あの時鳴り響いていた教会の鐘は、その情景にふさわしい音を今日も響かせているだろうか。そんなことを思いながら、同じECMニュー・シリーズのペルトの作品集「アリーナ」から、僕の大好きな、“鏡の中の鏡”を聴く。

  Link:  Spiegel im Spiegel / Arvo Pärt
       (このYoutube音源は、「アリーナ」のものでなく、ピアノとビオラの演奏です)

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アルヴォ・ペルト:アリーナ

確かに、彼が目指したこのシンプルな音楽の中にこそ、僕の最後に触れたい領域もあるような気がする。そんな確信に近い思いを抱きつつ、ゆったりとしたピアノと弦の音に揺られながら、来るべき再訪の時を思い描くのだった。



<おまけ>

 せっかくですので、タリンの雰囲気も少しだけ...

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ヘルシンキは静かな街だった

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静かな白夜だった。いや、正確には白夜とは呼べないのかもしれない。フィンランドの夏至祭は6月21日だから、そこからすれば随分日は短くなっているはずだ。それでも欧州大陸の最北の首都であるヘルシンキは、夜の9時を過ぎてもまだ西日が差し、通りすがりのカフェのテラス席はどこも賑わっていた。人通りがまばらになったカイサニエミ通りを北に歩いてホテルに戻る。ピトゥカシルタ橋の袂にあるフライング・ダッチ・ビア・ガーデンでは、まだまだ人が減る気配はない。

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橋を渡りきり、入り江に沿って左折すれば、レジャー船を係留している板張りの小さな桟橋に出る。少し薄暗くなった桟橋には、いくつかの人の輪が見える。地元の人達が床板に座り込み、楽しく談笑しているのだ。翳り行く日の中で、時間はゆったり静かに流れている。こんな風に人が集まっている場所でさえ、僕は深い静けさを感じていた。脳裏には空港からの道すがら見た、白樺の深い森の情景が浮かんで、消えた。

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桟橋の脇を抜けて右に折れればホテルの入り口が見える。既に10時をまわっていたが、まだ戻るには名残惜しい気分だった。ただ旅程初日の疲労感が全身を包んでいることを感じていたので、グッとこらえて部屋に入ることにした。


関西国際空港を飛び立ったのはその日(8月8日)の午前11時。例のごとく2週間前に突如思い立って航空券を押さえホテルをネット予約したのだが、心配していた台風は一足遅く、幸いまだ暴風圏には入っていなかった。ヘルシンキ・ヴァンター空港に着いたのは、6時間の時差を経て午後3時頃。満席の機内にはたくさんの日本人が乗っていたはずなのに、ヘルシンキの到着口に向かう人は思いのほか少なかった。タクシーで向かったホテルは、ヘルシンキ中央駅から地下鉄で一駅のハカニエミ駅近くにあって、一歩通りに出ればトラムもひっきりなしに行き交うとても便利なロケーションだ。荷物を置いてまずは街の中心まで歩いてみて、どこかで夕食をとろう、ということになる。時間は午後5時になろうとしていたが太陽は高く、とても夕方とは思えない。そこからヘルシンキ中央駅前広場までは初めての国を歩く喜びを全身で感じつつ散策。さらにアテネウム美術館の横をストックマン百貨店の方向に進む。地図を片手にその一帯をブラブラしながら、気になるお店を冷やかして回るのに、いつまでも沈まない太陽は、初日とは思えないほど充実した時間を与えてくれたのだった。

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それにしても、そこかしこにあるテラス席の混雑振りには驚く。西日がしっかりあたったテラス席は、日本だと敬遠されるはずだ。からっとしているとは言え、晴れた日の昼間の気温は30度近くまで上がる。フィンランドも今年は異常気象で、冷房装置の無い場所が多いため扇風機があっという間に市場から消えたそうだが、そんな中を短い夏を惜しむかのように、人々は貪欲に太陽を求める。オープンテラスがいっぱいでも店内はガラガラだったりするのだが、その執着の裏には今の季節からは想像できない、冬の厳しさ、太陽への渇望があるのだろう。

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そんなオープンテラスを尻目に、見渡す建造物や石畳の町並みは、まさしくヨーロッパ。古色蒼然とした、雰囲気あるものだ。しかし、どこか西欧のそれとは少し違った印象なのは、隣国ロシアの影響を受けているからだろうか。合わせて、いたるところに原色を基本としたモダンデザインが映える。街を歩く人々の衣類もまたカラフルだ。それでいて違和感が無いのは、その調和のイメージが社会に根付いているからだろう。フィンランドはモダンデザインの国でもあるのだ。

こういう場所にいれば、日本はどんなに気取っても、やはりアジアなんだと改めて思うわけだけど、目に見えるもの以外で特に感心した好ましい違いは、音への配慮である。まあ、この傾向は欧州全般にあるのだが、街がとにかく静かなのだ。

例えば百貨店。日本ならまずはBGMとして音楽が流れていたりする。エスカレーターでは乗り降りの注意が流れ、ちょっとしたジングルとともにひっきりなしに店内案内が流れ、地下に行けば売り子さんの勇ましい声がわんわん聞こえてくるのだが、そんなもの何一つない。実に静かだ。

例えば駅。日本ではこれから発着する電車のインフォーメーション、切符を買うときの案内のボイス音、あらゆる電子音、ホームでは、電車がもうすぐ来るぞ、どこ行きだ、ホームは危ないので下がれ、さあ、もうすぐ来るぞ、危ないぞ、下がれ下がれ・・・そんなことを、もう少し丁寧な言葉で連呼し、電子音がうるさい位に鳴り響くのだが、そんなものも一切無い。改札すらないのだ。

もちろんトラムや地下鉄、フェリーの中も同様で、どこに着くかは電子表示板で示されるだけで、案内は一切流れない。お店に一歩入ればドアの所で音が鳴るなんてことも無いし、BGMも鳴ってないし、レコードショップですら音は流れない。もちろんパチンコ屋もゲームセンターも無いわけで、平気で騒音を撒き散らすお店は見当たらない。

車の運転も穏やかでクラクションの音もほとんどしないし、街を縦横に走るトラムも走行音のみだ。唯一、信号機は青になればカタカタと音がするのだが、この音が実際にハンマーで板をたたいているような音だ。きっと電気的な仕掛けで物理的に叩いているのだろう。とにかく電子音を聞くことはまず無い。道を歩いていて、どこかで携帯の着メロが鳴ったり、大きな声で話すのを聞くこともない。この携帯電話世界第2位のノキアを抱く国ですらこうなのだ。

ここまで徹底的に静かだと、やはり音に対する国民のモラルの差が歴然とあるとしか考えられない。恐らく便利さの追求や安全性の確保の代償として暴力的で一方的に発せられる音を許容することは、ありえないのだろう。とにかく街中でじっと目を閉じ聞こえてくるのは、穏やかな人々の静かな声と足音、石畳をトラムが走る音、時々見かけるストリートミュージシャンの演奏、そしてカモメの声くらいだ。

そうそう、ヘルシンキで最初に歓迎してくれたのは、かもめだった。かもめは海岸沿いでなくても様々なところに姿を見せ愛嬌を振りまく。そのたびにヘルシンキは港町であることを実感するのだ。そういう意味では「かもめ食堂(ruokala lokki)」とはよく言ったものである。このタイトルは、この街を訪れた日本人の印象からすればぴったりくる。しかし、映画撮影後の実際のかもめ食堂は「kahvila suomi」、すなわち「カフェ・フィンランド」に名前を変えている。ヘルシンキの人にとっては、「かもめ食堂」って何か変、ってことなのかもしれない。

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うーん、これが日本だったら、まず間違いなく、街を挙げてカモメッコなんていうゆるきゃらを作って、等身大のマリメッコ柄のずんぐりむっくりカモメッコが観光施設に出没し、カモメッコ・サブレやカモメ煎餅か何かを販売したりするところなんだろうけど、やっぱり日本のお子様文化とはちがうなー、などとちょっとフィンランドびいきになりかけて、ふと気づいた・・・・・・そういえば、等身大の微妙なムーミンに出会ってしまったんだっけ...失礼しました!

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というところで今日の音楽。やはり、フィンランドと言えばシベリウス。僕も大好きな作曲家なので、これまでも何度か紹介してきたが、今日は演奏者泣かせの難曲、その何とも張り詰めた世界が魅力的な、シベリウスのバイオリン・コンチェルトにしよう。この曲を聴くと、ピリッと冴えたフィンランドの雪の大平原を、凛としたバイオリンの音がまっすぐ突き抜けるように鳴り響く様を想像してしまう。暑い夏にちょっといい、涼しくなる音楽だ。

  Link:  Sibelius :Violin Concerto in D minor op.47 / Vn: Suwanai, Cond: Ashkenazy /Phlharmonia Orch. 

大学3年の時、所属した学生オケの定期演奏会で、この曲がサブメイン曲だった。ソリストは数住岸子さん。もう随分前に若くして亡くなられたが、当時注目を集めつつあった人で、その年のN響とのレコーディングがレコードアカデミー賞を受賞することになる、弱体学生オケにとってはもったいないような夢のソリストだった。練習に数回来られたとき、お話をする機会もあったが、ちょっと浮世離れしたセンシティブな印象はまさに芸術家という感じで、ちょっと近寄り難かったのを覚えている。そんな数住さんの印象とこの曲はドンピシャという感じだったが、当時思い描いていたこの音楽の心象風景は、果たして今のイメージと合っていたのだろうか。もう少し寒々しかった気もするんだけど・・・


仕事であれプライベートであれ、海外に行けば、体は少々疲れても日本では経験できないリフレッシュされた感じになる。それは恐らく、五感で感じるあらゆるものが、日本での日常と違うために、体や頭が新しい反応をするからだろう。しかし同時にいやな思いの一つや二つ必ずするし、色々困ったエピソードもついてくるものだが、今回はそういうことがほとんど無かった。押し付けがましくなく理にかなった街のシステムと、素朴で優しく親切な国民性。特に突出した見所があるわけではないのに、とても魅力的な街。日本とは全く違った風景と、そこに暮らす人々の日常に埋没して数日間を過ごすには、最高の街だと分かるのに時間は必要なかった。

フィンランドは、日本からのイメージで言えば、もっぱらムーミンとマリメッコとイッタラのグラス、それに「かもめ食堂」といったところだろうか。さらに広範に見れば、森と湖とシベリウス、冬はサンタクロースとオーロラとういう感じだろう。しかし、首都ヘルシンキはそういうものを全て取っ払っても、一度住んでみたい、そんな気持ちにさせてくれる、魅力溢れる静かな街だった。

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<※ 街で見かけたお定まり、ヘルシンキのマンホール。いい感じです。>



<おまけ>

シベリウスのバイオリンコンチェルトを、僕の愛聴盤でも、ぜひお楽しみください。諏訪内晶子さんの演奏ですが、バックはオラモ指揮、バーミンガム市響です。

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シベリウス:ヴァイオリン協奏曲 / 諏訪内晶子


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道央の旅 (2) 「花と木と丘と」

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夏の北海道は、期待にたがわず、美しく、美味しく、爽快だった。
旅行の少し前は大阪でも多少涼しくはなっていたので、気温差に驚くようなことは無かったが、この体感する気分の違いは、恐らく湿度の差と、空気の成分の違いによるのだろう。(要するに空気がきれいってことです!)

車を走らせても、小樽や札幌ですら渋滞に遭うこともなく、今やカーナビのおかげで行く場所がわからないというストレスもほとんどない。道も広く走りやすい。流れる音楽に耳を傾けながら運転していると、見慣れた西日本の風景とは違う、ヨーロッパの郊外にも似た光景に、時に目を奪われてしまう。

そんな中で丸一日、富良野・美瑛周辺をいろいろ巡っての記。

先ずは花。ラベンダーの時期には既に遅く、一体どうなっているのだろうと思っていたのだが、どこも色どり鮮やかな花々で迎えてくれた。花の美しい季節。植え方や配色も、それぞれの公園やファームによって個性が表れている。じゅうたんを敷き詰めるように咲かせているところもあれば、一つ一つを丁寧に植えているのがわかるところもある。目にすれば、自然と明るく華やいだ気分になる。

花は、人の気分を時に高揚させ、時に鎮めてくれる。人生の節目節目を彩る欠かせないものだ。そしてそれは方向の違いこそあれ、万国共通の感覚でもある。

華やかな配色の花のじゅうたんもいいが、緑の濃淡の織り成すじゅうたんも気持ちがいい。くっきり風景を締める濃い緑、若々しさを感じさせる淡い緑、ラベンダーの色合いにも通じるくすんだ緑、その微妙な濃淡が、パッチワークのようにつなぎ合わされながら、彼方に広がる丘陵を覆いつくす。その稜線につながる空の青は鮮やかに澄んでいる。

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そんな中に、スックと抜き出る木。その生命力と存在感は絶対的だ。上富良野や美瑛の丘陵地帯で様々な木を見たが、どれも生命力にあふれ、周囲の風景の中でとても魅力的に茂っていた。ポプラもあればカラマツやカシワもある。樹齢も相当なものだろう。これらの木にはそれぞれ通称がついているのだが、その風景が使用されたテレビコマーシャルからくる名前、その形から連想する名前等、付け方はいろいろだ。それだけ、様々な人々の心に響いてきたということだ。

セブンスターの木、ケンとメリーの木、マイルドセブンの丘、哲学の木、親子の木...そういえば、ぜるぶの丘の展望台にあった「ここからケンとメリーの木が見えます」という看板の前で、若いカップルが、あー、あれがケンとメリーの木だ、と仲良く見ていた。女の子の「何でケンとメリーなんだろうね。」に対し、男の子「さあ...きっと有名な人の名前なんじゃない?」なんて話をしていた。うーん、僕は思わず、世話焼きおじさんと化し、「あれはね、君たちが生まれるずっと前に、日産スカイラインのテレビコマーシャルが、“ケンとメリー”という、そう、君たちのような若いカップルをテーマに、色々な場所で撮影されたのだよ。その一つがあの木の場所。」なんてことを言いそうになったのだが...やめた。この二人にとっては、そんなことはどうでもいいことなのだ。今ここでこうやって二人で見ていることに意味があるのだから。

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そうそう、この「ケンとメリー」の音楽、BUZZの「愛と風のように」って、いい曲だったな。今でも編曲を変えれば、十分受けそうだ。山崎まさよしあたりに、ちょっとブルースっぽくカバーしてもらう、なんてのもいいだろうし、Take6ばりに、ゴスペラーズあたりにジャズ風にアカペラでやってもらっても、様になりそうだ。

    Link:  ケンとメリー ~愛と風のように~ / Buzz
    Link:  ケンとメリー 愛のスカイライン(地図のない旅編)

ところで、ここ北海道でもひしひしと感じたことがある。それは静かで確かな“中国パワー”だ。ホテルとその周辺ではあまり無かったのだが、このような景勝地に来ると、時に聞こえる会話から、恐らく半数近くは中国の人なのでは、と思えた。いや、それ以上かもしれない。しかし、この地で見かける中国人は、もうほとんど日本人だ。黙っていれば判別できない人も多い。見た目ではわからないレベルになっている。大阪の繁華街で出会う彼の地の人たちとどこか違うのだ。それは、服装だけではなく、化粧や髪型、目の動き、表情、雰囲気、全てにまつわることなので、そのレベルの近似は、ある意味すごいことだと思う。

団体でどーん、はい、集合!という感じではない。若い二人連れや、小さな子供連れ。中には車椅子のおばあちゃんを連れた中国の人もいる。みんな、お土産売り場に殺到することも無く、思い思いに伸び伸びと楽しんでいる。中国本土は地勢的にどうしても埃っぽく、日本の澄んだ空気や風景に憧れる、という話もよく聞く。そういう点では、ここは素晴らしく快適な場所だ。その目には楽園のように映っているのかもしれない。

それを受け入れる側にも感心したところがある。尾籠な話で恐縮だが...それはトイレ。こんな田舎の、こんな場所でと思えるのに、トイレの充実は関西の観光地の比ではない。面白くなってちょっと意識して見てみたが、広くてきれいで、わかりやすい場所に結構ふんだんに設置されている。ほとんどが、いわゆるウォシュレットタイプだ。こう見ると、欧米にはなかなか拡がらないこの手の設備は、中国にこそ拡がる可能性があるのでは、と思ってしまう。いっそのこと、温水便座メーカーは競って景勝地、観光地をショールームに見立て、中国進出の足がかりとするべきなのだ!...と、僕が思いつくようなことは、だいたい考えていそうだが...

そんな中国の人たちもあまりいなかったお勧めのスポットを一つご紹介。それは美瑛の東の外れにある、「青い池」だ。そこそこ人はいたのだが、少し広い駐車スペースがあるだけで施設は何もない場所だった。車を置いて、ずんずんと道に沿って山道を進んでいき、右手の木立を分け入ると現れる。後で地元の人に聞いた話によると、最近になって人が多くなった場所だとか。その幻想的な風景は一見の価値ありです!(その地元の人は、その上流の白金温泉のあたりの川は、さらに真っ青で素晴らしいとのこと...もっと早く教えてもらえれば行けたのに~!)

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さて、こんな中での今日の一枚。ちょっとベタだが、気分はこんな感じだったので...
この旅行では、車での音楽のことをすっかり忘れていて、聴くことのできるものを何も準備してこなかった。途中からは富良野で購入した前回紹介のCDを聴いて満足したのだが、最初は富良野・美瑛の風景の中を走りながら、地元のラジオ放送ばかり聞いていた。(それはそれで興味深かったのですが...) あ~、CDを準備してきたら良かったな~、と何度か思ったが、そんな時、その風景と一体となって頭の中に流れていたのがラフマニノフの交響曲第2番・第3楽章、Adagioだ。

    Link:  Ashkenazy - Rachmaninov symphony no.2 (III) – Adagio(1/2)
    Link:  Ashkenazy - Rachmaninov symphony no.2 (III) – Adagio(2/2)

この曲は、もう随分有名だし、いろいろな場面で流れるので、聞けば、あーあの曲、となるのだろうが、意外にも頻繁に演奏されるようになったのは1970年代に入って、アンドレ・プレヴィンがロンドン交響楽団との世界ツアーで取り上げてからである。

兎角この曲は、「ハリウッドの映画音楽のようだ」などと揶揄されるが、1907年の作なので、そういうものがあったわけではない。即ち、そのロマンティックで人の感性を刺激する音楽が、後の映画音楽に多大な影響を与えたということなのだが、そのこと自体が当時のクラシックの世界では攻撃の対象であり、大きく取上げられることはほとんどなかったのである。この曲を作曲した時、ラフマニノフは34歳。二人の女の子にも恵まれ、家庭的には幸せの絶頂だった。しかし一方でロシアで着手したこの曲を完成させた場所はドイツのドレスデン。当時のロシアの政情不安から故郷を一時離れ、避難していたのである。そういう点では、この音楽の裏には、幸福感だけではなく、故郷ロシアやその風景に寄せる郷愁の想いが隠されているのだろう。恐らくその想いの同居が、この音楽をより深く、魅力的なものにしているのだと思う。

牧歌的だが叙情的でどこか切ないこの曲を思い浮かべながら眺めた風景は、初めての地でありながら、なぜか懐かしくもあった。そしてそれは、季節を変えてまた訪れたいと思わせてくれる風景なのだった。

  *** ラフマニノフの交響曲第2番は、僕の愛聴盤、
     アシュケナージ指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団でぜひどうぞ

ラフマニノフ交響曲全集 / アシュケナージ指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
ラフマニノフ交響曲全集 / アシュケナージ指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団




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「ルーシー・リー展」に想う

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昨日、ルーシー・リー展に行ってきた。場所は中之島の中央公会堂前にある大阪市立東洋陶磁美術館。ひとりの陶芸家の展覧会のために出かけるのは初めてだった。

特に陶芸に傾注しているわけではないのだが、以前たまたま目にしたルーシー・リー(1902-1995)を紹介した記事の中の、一枚の線文鉢の写真に目が釘付けになった。その形や色合いを含めたたたずまいには、無条件で僕の感性に強く訴えかける何かがあり、機会があればその作品を見てみたい、と思っていた。

この展覧会は、彼女の創作の軌跡をたどりながら、200点近い作品を時代に沿って見ていく回顧展だ。オーストリアの裕福なユダヤ人家庭に生まれ、ウィーンで創作活動を開始した彼女は、ナチス・ドイツのオーストリア侵攻を機にイギリスに亡命。以後ロンドンのハイドパークの北に小さな工房兼住居を構え、生涯そこを拠点に創作活動を続けた。「都市に生きた陶芸家」と言われる所以である。

ルーシーリー展1


いやー、よかったぁー(涙)!そのモダンな形と色使い。シンプルでありながら温かみがあり、独特の「洗練」を感じる陶磁器たちは、現代の若い日本の陶芸家たちにも繋がっている気がする。陶芸は工芸であって美術品ではない、という彼女の信念は、だからこそ邪念が無く、彼女自身の内側から湧き出てくるものをその作品に素直に反映させる力になっている。まさに彼女の作品は、その信念に反し、実用的でありながら一級の美術品になっているとも思える。

ミニシアターのコーナーでは、30年ほど前の英国BBC放送が彼女の工房を取材した時の映像が流されていて、その実際の作業の様子や彼女の肉声をうかがい知ることができる。会場は幅広い年代の多くの人たち(熱心な若者たちも多い)で多少混雑はしていたが、ゆっくりと時代を追って見ることができ、その素晴らしさに感じ入ってしまった。これほどまでに充実感が味わえるとは思っていなかった。大満足でした!

さて、今日紹介の一枚。昨日購入したルーシー・リー展のカタログを眺めながら、この気分で聴きたい音楽は?と考えてみた。そこで浮かんできたのが何故かチャーリー・チャップリンの姿である。英国・ロンドン出身で、第2次大戦の戦下、アメリカでナチスドイツを批判する映画「独裁者」を製作。ハリウッドで成功しながらも映画界の赤狩りでスイスに亡命。このあたりが符合して思い浮かんできたようだ。ということで、どこかユーモラスで寂しいチャップリンの姿がジャケットを彩る、バイオリンの奇才、ギドン・クレーメルの「ル・シネマ~フィルム・ミュージック」を紹介しよう。

ル・シネマ~フィルム・ミュージック
Le Cinema / Gidon Kremer


このアルバムは、クラシックの名演奏を披露し続けながら、一方で現代音楽やポピュラー音楽など、多様な音楽を独自の思い入れと解釈で世に送り続けているクレーメルが、1998年に制作した映画音楽集であり、盟友オレグ・マイセンベルグ(pf)とのデュオが基本である。ただし、ゆったりとカタログを見ながら流していると、最初は快調に進むも、途中から、アレ?変だぞ!合わないぞ!なんて思うかもしれない。それは仕方ないです。だってクレーメルですからねぇ。BGMを演奏しているわけではない、ってことで。超絶技巧有り、現代音楽有り。全ては彼の思い入れ深い映画音楽を使って、彼の芸術性、表現力を存分に発揮しているわけで...はっきり言って「すごい」です。

特におすすめは、1曲目。映画「モダン・タイムス」の音楽として、チャップリン自ら作った「スマイル」。この編曲は、この曲の持つ幸福感の影にある憂いの部分を強く表していて、それをクレーメルが感情の起伏を思い通りに表現しながら、ロマンティックに弾き切っている。最近様々なミュージシャンがこの曲を演奏しているが、その中でも出色の演奏。この音楽を聴いた前と後でジャケットの写真から受けとる印象が、少し変化すること請け合いです!

  Link:  Gidon Kremer plays SMILE

そして4曲目。もう涙無しではとても...というくらい素晴らしい、僕自身大好きな曲。1984年のイタリア映画「エンリコ四世」のためにピアソラが作った「Tanti Anni Prima(何年も前に)」。「AVE MARIA」のタイトルで呼ばれる場合もあるこの曲は、緩やかでノスタルジックなメロディーを気持ちのたかぶりに任せて盛り上げ、転調とともに劇的な展開でおさめていくのだが、原曲ではオーボエで演奏されたこの曲を、クレーメルがバイオリンで超絶技巧も駆使しながら奔放に演奏する。ホント、素晴らしいです。

安易に聴いていると、ちょっとやけどするこのアルバム。やはり、クレーメルほどの人が手がけることで、この大衆的な音楽が再認識され、新たな意味を持つ。実用性にこだわり続けたルーシー・リーの陶磁器。これも、彼女ほどの人が内側から湧き出る芸術性と表現力を持って創り上げるところに、新たな意味が表出するのだろう。

たくさんの人が、何かを感じ取ったであろうルーシー・リー展も大阪では来月まで。今度は、写真にあった彼女の工房も見たくなってしまった。ハイドパークの北側に、まだ残されているんだろうなぁ...



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